人物紹介
渋沢 栄一しぶさわ・えいいち(1840~1931)
渋沢 栄一
しぶさわ・えいいち(1840~1931)
埼玉県深谷市出身。日本の実業家。江戸時代末期に農民から武士に取り立てられ、一橋慶喜に仕える。27歳の時、第15代将軍となった徳川慶喜の実弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学するほか欧州諸国を訪問。明治維新が起こり、欧州から帰国すると、静岡に「商法会所」を設立。その後、明治政府に招かれ、井上馨のもと、大蔵省の官僚として、造幣、戸籍、出納など、さまざまな政策立案を行い、新しい国作りに深く関わります。しぶさわ・えいいち(1840~1931)
退官後は実業界に転じ、第一国立銀行、東京商法会議所、東京証券取引所などの企業や団体を設立・経営。生涯に約500社の企業に関わったとされ、「日本近代社会の創造者」と称されます。同時に約600の教育機関や社会公共事業、研究機関等の設立・支援にも尽力。「論語と算盤」の言葉に代表される「道徳経済合一」の思想でも知られています。
この肖像の年代は、70歳の古希のお祝い時に撮影された写真等複数枚を参考として描かれました。ただし、各方面で活躍されている躍動感や若々しさを表現するため、60歳代前半にリメイクされています。
津田 梅子つだ・うめこ(1864~1929)
津田 梅子
つだ・うめこ(1864~1929)
東京出身。日本の女子教育家。女子英学塾(現・津田塾大学)の創設者。つだ・うめこ(1864~1929)
幕末の農学者で、江戸幕府の外国奉行支配通弁(通訳官)を務めていた津田仙、初子夫妻の次女。1871年、6歳の時に日本最初の女子留学生として岩倉遣外使節団と共に渡米。ワシントン近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻の元に約11年間滞在し、17歳で帰国。華族女学校教授に就任します。
女性の地位を高めるために自分自身の学校を作りたいと願う梅子は再度留学を決意。1889年、再渡米し、ブリンマー大学で生物学を専攻。その際に執筆した論文が英国の学術雑誌に掲載されたため、「欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性」と言われています。1892年に帰国。華族女学校、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で教鞭を執った後、1900年、女子英学塾を創設。生涯を通じて、女性の地位向上と女子高等教育に尽力しました。
この肖像の年代は、女子英学塾(のちの津田塾大学)を創立した年齢であり、津田梅子の教育者としてのキャリアが確立した年代である30歳代の写真等複数枚を参考として描かれました。
北里 柴三郎きたさと・しばさぶろう(1853~1931)
北里 柴三郎
きたさと・しばさぶろう(1853~1931)
熊本県小国町出身。「近代日本医学の父」と呼ばれる細菌学者。きたさと・しばさぶろう(1853~1931)
肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町北里)の庄屋の長男に生まれ、幼少期は、四書五経などの儒教を学びます。1871年、18歳で古城医学所兼病院(現・熊本大学医学部)にて、オランダ人軍医マンスフェルトに師事し、医学の道へ。1874年、東京医学校(現・東京大学医学部)入学。在学中に予防医学を生涯の仕事とすることを決意し、卒業後は内務省衛生局に勤務します。
1885年にドイツ留学を命じられ、1886年からベルリン大学のコッホに師事。1889年、世界初の破傷風菌培養に成功し、翌年には破傷風菌抗毒素を発見して世界を驚かせます。さらにそれを応用して血清療法も確立。1892年に帰国後、伝染病研究所を創立。1894年には、ペストの原因調査のため香港に赴きペスト菌を発見します。その後、慶應義塾大学医学部の創設、日本医師会などの医学団体や病院の設立など、社会活動も積極的に行いました。
この肖像画は、風格や品位があり、学者としての地位が確立し、働き盛りで充実した様子が伺えるため、50歳代の写真等複数枚を参考として描かれました。