見どころ解説(令和元年度_第2回特別展)

更新日:2024年2月5日

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令和元年度 第2回特別展
「日本人が初めて肖像をデザインしたお札 乙百円 誕生の軌跡」
見どころ解説

1. 技術の伝承と新しい技術 ~キヨッソーネから大山助一へ


エドアルド・キヨッソーネ(1833年-1898年)

お雇い外国人のキヨッソーネが退職した後、しばらくは銀行券の改刷がありませんでしたが、金兌換制度の導入によって日本銀行兌換券が発行されることとなり、弟子の細貝為次郎(ほそがいためじろう)が師の技法を受け継ぎ、肖像彫刻を担当しました。しかし細貝も印刷局を去ることとなり、肖像を彫刻する者が不在となっていたところ、印刷局に留学を命じられ、アメリカで勤務していた大山助一(おおやますけいち)が帰国し、日本銀行兌換券甲100円の藤原鎌足の肖像を彫刻しました。アメリカで技術を研鑽(けんさん)した大山が肖像彫刻を手がけたことにより、日本の銀行券の製造技術は、キヨッソーネの伝えたヨーロッパ式からアメリカ式へと移行しました。
ここでは、キヨッソーネ、細貝、大山が肖像を彫刻した銀行券を比較展示し、各々の技術や表現を紹介するとともに、大山が彫刻した版面(参考版面)と刷り物なども併せて展示します。力強い画線を特徴とする大山の彫刻技術を間近でご覧ください。

2. 大山助一とアメリカ時代


大山助一(1858年-1922年)

大山助一は、世界有数の証券印刷会社であったアメリカンバンクノート社に勤務し、アメリカ国内だけでなく、中南米の紙幣や銀行券を多数手がけています。特に女性肖像を得意とし、優れた人物肖像を多く残しました。また、アメリカの歴代大統領の肖像画も彫刻しており、「ジャパニーズ・オオヤマ」と呼ばれ、その仕事は高く評価されました。
ここでは、大山が手がけた研修生時代の初期の肖像画、アメリカンバンクノート社での紙幣や諸証券、肖像画などとともに、日本の銀行券や切手も併せてご紹介します。


第23代ハリソン大統領の肖像アメリカンバンクノート社の社史に掲載されたもの。
大統領自身もこの肖像を大変気に入り、大山の名声を高めたといわれている。

3. 偽造防止技術の調査研究 海を渡った技術者たち


ドイツ 10マルク 1906年

明治時代後期、欧米で進歩した写真製版の技術が日本に伝わると、偽造された銀行券が多く出回るようになりました。そこで、矢野道也(やのみちや)製肉(インキ製造)課長を始め、印刷局の技術者たちは相次いで欧米へ渡り、各国の製版や印刷、偽造防止などの技術について調査を行い、それが新しい銀行券の開発に活かされました。
日本銀行兌換券乙5円(以下、乙円券)は、矢野がドイツの印刷局で見た10マルク紙幣をモデルに製造されたものです。偽造されやすい黒色を避けて淡色で印刷し、肖像の左には円形の空所に大黒天の肖像をすき入れ、裏面に着色繊維を入れるなど最新の技術が多用されました。しかしながら、空所の部分が印刷もれではないかといわれるなど当時の人々にはまだ受け入れられず、わずか3年で改正されることとなりますが、これにより、後の日本の銀行券は、しっかりとした枠線のある装飾的な様式や刷色の濃い印刷などが主流となっていきます。
ここでは、乙5円券とドイツ10マルクを展示し、すかしもご覧いただきます。また同様のデザインを用いたヨーロッパの紙幣も併せてご紹介します。

4. 乙百円誕生への道


完成したコンテ画

明治末期から大正期にかけて、第一次世界大戦後の金融恐慌による不況の中、関東大震災が発生し、印刷局の工場は全焼し、紙幣や銀行券の原版類が焼失するなど大きな被害を受けました。工場の復旧が急がれる中、震災直後の大正13年に、それまでの銀行券の改造が伝えられ、日本銀行兌換券乙100円(以下、乙100円券)の製造計画がスタートします。
それまでに発行された紙幣、銀行券の肖像にはすべて、お雇い外国人のキヨッソーネが残した原版があり、それに基づいて肖像が作成されていましたが、乙100円券においては初めて聖徳太子の肖像が採用されることとなり、原版を彫刻するために、肖像の下図(コンテ画)、文様、図柄などのすべてを一から製作する必要がありました。図案官の磯部忠一(いそべちゅういち)は、専門家の意見を聴取し何度も修正を加えながら入念に下図を作成し、約1年をかけて完成させました。ここでは、聖徳太子のコンテ画(複製)を展示します。

5. 肖像を彫刻した工芸官 森本茂雄


森本茂雄(1886年~1930年)

聖徳太子の肖像のための下図が完成された後、その彫刻は工芸官の森本茂雄(もりもとしげお)が担当しました。
森本は、明治33(1900)年に14歳で印刷局に入局し、大山助一の指導の下で技術を研鑽し、その右腕としても活躍しました。当時の肖像彫刻は大山が一手に担っていたため、森本は切手の仕事を数多く手がけています。その大山が亡くなった後、森本は後継者となり、乙100円券で初めて肖像を彫刻しました。また、日本古来の文様や西洋のアール・ヌーヴォーの図柄の模写を行うなど、さまざまな図案の研究に取り組み、昭和4(1929)年には欧米で各国の原版彫刻や偽造防止技術の調査を行いました。
ここでは、森本の残した図案の模写や切手の仕事、渡航時の写真、パスポートなどをご紹介します。併せて、同時代の欧米の紙幣を展示し、日本古来の図柄を用いた乙100円のデザインに見る海外の紙幣の影響についてもご紹介します。

6. 乙百円の誕生


日本銀行券乙100円 昭和5(1930)年

昭和2(1927)年の夏、乙100円券の図案が最終的に決定し、計画が始まってから3年を経てようやく原図が完成し、昭和5年1月1日に発行が開始されました。こうして誕生した乙100円券は、戦前の技術を結集した最高傑作ともいわれています。その要因の一つに、最新の機器と印刷技術を用いて装飾性のある精緻な図柄を実現し、優れたデザイン性と偽造防止技術を兼ね備えた銀行券であることが挙げられます。
また、肖像に関連する図柄を採用するという方針のもと、聖徳太子にゆかりのある法隆寺や皇室とゆかりの深い正倉院御物を元に図案化したものが多用され、従来の銀行券にはなかった日本独自のデザインが完成されました。
ここでは、日本古来の図柄に基づく乙100円券のデザインについて取り上げるとともに、図柄の特徴やその元となった『国華余芳 正倉院御物』を展示し、同時期に発行された日本銀行兌換券丁5円、丙10円についてもご紹介します。

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